人生は修行?スピリチュアルな視点からの解釈

こんにちは、ミエナです。

今回は、「人生は修行?スピリチュアルな視点からの解釈」をテーマに書いていきます。

人生は修行?

今回は、みーさん(50代・女性)から質問を頂きました。

才能、使命、開花、世の中の為、地球の為、自分の才能とは何なのか、これにはとても興味あるのですが、「人生が全て修行だ」と思うと生きていてあまり楽しくありません。「ずっと働き続けなければいけない」ような感覚というか、「ずっと正しく生きなければならない」という決められた感じが、自分にとって、知ってしまっては、不自由になりそうで

みーさん、ありがとうございます。

みーさんのおっしゃる通りですよね。

「人生は修行です。苦しくて当然です。」みたいなスピリチュアル論は、私も嫌いです。

…と言いつつも、確かに私も「人生は修行です」と言ってしまう人間ですので、「人生は修行なのか?」について、もっと詳しく述べていきたいと思います。

人生は嬉しいもの

努力して、何か出来るようになったら嬉しくないですか?

例えば…

  • 泳げない人が、泳げるようになる
  • 絵が下手な人が、美しい絵を描けるようになる
  • ピアノが弾けない人が、弾けるようになる
  • 体力のない人が、運動神経がよくなる
  • 英語が話せない人が、話せるようになる
  • 漢字が苦手な人が、どんな漢字も書けるようになる
  • 不幸な人が、幸せになる…などなど

上記のように、これまで出来なかったことが出来るようになると、人は「嬉しい」という感情が湧き出ますよね。

人生も同じで、「これまで出来なかったことをできるようにする」ことなんです。だから、基本的に「人生は嬉しい」のです。

「嬉しい」のためには、努力が必要

「出来なかったことが、出来るようになる」のが人生です。だから、基本的に、私たちは「嬉しい」のために生きています。

でも、この「嬉しい」という気持ちは、何も惰性で生きていては感じるとることができません。

「出来なかったことが、出来るようになる」には努力が必要ですから。

そういう意味で、人生には苦労があります。でも、この苦労は、「出来なかったことが、出来るようになる」ための苦労であり、その先に必ず「喜び」があります。

だからこそ、私たちは、清く正しく生きようとするのです。

「私たちの価値観」と「天界の価値観」の違い

「私たちの価値観」と「天界の価値観」には違いがあります。だから、「幸せ」に対する価値観も異なります。

:ポテトチップス食べると幸せ…という価値観は、天界にはないし、「異性にモテまくりたい」という価値観も天界にはありません。

これは、私たち人間の意識レベルが神様よりも低いためです。

そして、この意識レベルの違いが、人生が辛いもののように誤解させてしまいます。

人生は「これまで出来なかったことをできるようにする」ことですが、それは、人間の価値基準ではなく、天界の価値基準での魂における「出来なかったことをできるようにする」ことなのです。

ですので、私たち人間の意識レベルが上がり、天界の意識レベルまで達すると、私たちは、より「嬉しいのために生きているが実感できるようになります

私たちは、天界基準で、自らの魂における、「出来なかったことをできるようにする」を求められるために、天界と人間の価値観の乖離によって「人生が修行」という発想が生まれ、「生きることが苦しい」と認識します。

人生は修行…でも、きちんと見返りがある

人生は、修行です。でも、私たちの意識レベルが上がると、「人生は修行」とは考えず、私たちは「嬉しいのために生きている」に変わります。

それは、まっすぐに生きていれば、たくさんの幸せ、感動、喜びを得られるからです。

人生で多くの見返りが得られるのは、宇宙の法則が、魂の成長に対し、見返りを与えるシステムになっているからです。反対に、見返りを感じられない人がいた場合は、魂の成長が促されておらず、欲を軸にした価値観の元に生きている可能性があります。

個々人の価値観は、それぞれ自由であって良いのですが、スピリチュアル的に、欲を軸にした生き方は、幸せと無関係であると、この記事ではお伝えしたいです。

Q. 自分が死んだとき、自分のお葬式で、参列者からなんて言われたいですか?(※)

誰だって、「いい人だったね」とか「惜しい人を失いました」と言われたいですよね。「欲を軸にした価値観」では、それはなし得ないのではないでしょうか。

※ スティーブン・R・コヴィー著『7つの習慣』より

ミエナ
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