こんにちは、ミエナです。
今回は、「介護」について書いていきます。
「介護」と一言で言いまして、多くのシチュエーションが多くありますよね。ご自宅でご両親を介護されている方、ケガをした家族を支えている方、介護施設で働いている方などなどです。
どのようなご状況であろうとも、容易な介護は存在せず、介護をしている方は、多くのご苦労があり、そして、心に様々な感情が湧くことでしょう。
私の母も、現役を引退しましたが、かつては、看護士から介護士に転職し、高齢者の介護施設で働いていましたので、その苦労を間接的ではありますが目の当たりしています。
この記事では、介護をスピリチュアル的な側面で捉え、介護についての新しい考察をしていきたいと思います。
介護とスピリチュアル
ミエナの個人セッションでは、ご相談者による様々な「介護におけるご相談」を受けます。
- 「旦那の母を介護しているけど、感謝されない…」
- 「介護施設での仕事が大変…転職を考えている」
- 「主人を介護しているけど、このままずっと介護する人生なのか…」などなど
介護に対し、真摯に向き合い、一生懸命な方が多い中で、日々の苦労と疲労が蓄積されている方が多いように思います。
近年、介護施設での暴力、虐待のニュースがよく流れますが、私が霊視させていただいた方々は、相手の心に寄り添い、相手を尊重し、心のケアまで考える方もいて、ちょっと感動したりもします。
多くの介護される方が、介護することに使命を感じ、日々、邁進される中で、ときに介護に悩み、多くのストレスを抱えているのも、大きな一側面です。
では、多くの人がストレスなく介護を進めるには、どのようなマインドが必要なのでしょうか?「そもそも、介護とは、スピリチュアル的にどういう意味があるのか?」というテーマから探っていきましょう。
人は介護することで、自分を愛す
この世に生まれた限り、老いることは皆に定められた運命です。若い内に元気であっても、年を重ねれば、誰しもが介護をされる身となります。「自分の人生の最後は、スパッと終わらせたい」と思う私みたいな人も多くいると思いますが、それでも、人は、できる限り「生(せい)」を満喫したいと思うものです。
自分は、いつか介護される身になる…
心では判っていても、自分がいざ介護する身となると、なかなか相手に対し、「自分だったら、 こういう風に介護してほしい」というような介護を相手に対し快く行うことは容易ではありません。だからこそ、私は、介護をされている方に、尊敬の念を抱いています。
さて、介護をしている方は、心の中でどのような変化が起こっているのでしょうか?実は、ここに介護におけるスピリチュアル的な意味が見えてくるのです。
▼スピリチュアルにおける「介護」について
行動を愛に変えるのが「介護」である
これは、神様から頂いた「介護」に対するメッセージです。ちょっと、解説させて頂きますね。
私たちは、見ず知らずの人を「愛そう」と思っても容易には愛せません。それは、ご高齢者に限らず、どんな人でも同じです。
上記のAさんのように心で決めていても、無条件な「人への愛」は簡単には湧き上がらないのです。しかしながら、介護を必要とする人に対し、適切な対処を施すと、心の中で相手を受け入れられなくとも、介護を通じて、自然とその人に対する愛が芽生えるのです。
愛を持って介護しなくとも、介護という行動を起こすことで、愛はあなたの心に生まれる。
相手がどんな人であろうと、どんな過去を持とうと、どんなに自分のことが嫌いな人でも、今、この瞬間、相手が自分を必要とした場合、それをサポートしてあげることで、互いに愛の交換が生まれ、ともに生きる喜びを得えていきます。
さらに、介護によって生まれた「愛」によって、今後は、介護している側が、自分のことが好きになっていきます。だから、介護をすることは、相手から「自分を愛す力」をもらっていることにもなるのです。
介護は感謝されない?
介護をしている方から、私が度々ご相談いただくのは、「一生懸命に介護しても感謝されない…」というお悩みです。
ご自宅での介護、介護施設において、一生懸命に努めても、ときに要介護者から心ない言葉を受けてしまうこがあります。
要介護者としては、何気ない一言かも知れませんが、ときに介護する方を傷付けることがあるのですね。
その要因となるきっかけは様々あると思いますが、私が要介護者の気持ちを霊視すると、しっかりと心の奥に介護者への感謝の念があることが判ります。
口では、愚痴、文句を言ってしまう方でも、介護される側とする側で、確かな心の交流が見て取れます。では、要介護者は、心の奥でどのように感じているのでしょうか。以下に記載します。
▼愚痴、文句を言ってしまう介護者の深層心理
- 「ありがとう」と毎回、介護者に伝えるのは「クドい」と思っている
- 自分が抱く感謝の心は、「言わなくても判っているはず」と思っている
- 「介護してもらって申し訳ない…」という気持ちが湧き、感謝の気持ちが表に出てこない
- 施設などで、「他の人が、介護士に感謝を示しているから、自分は言わなくても良い」と思っている
などなどです。介護される側の複雑な想いが、感謝の言葉を口にできない要因となり、そして、その反面、愚痴や文句と言った言葉が、介護者の方に際立って聞こえてしまうケースが多いように思います。
そのために、介護される方は、「相手の心の奥には、自分への愛がある」と自信を持って認識して良いと思います。愚痴や文句に心惑わされず、その奥にあるに着目してみてください。
自らの使命として介護をする人
多くの高齢者は、身体ケアだけでなく、心のケアを必要としていることがとても多いと思います。介護者からすれば、身体ケアだけでも重労働なのに、心のケアも担うとなると、さらに大変です。
しかしながら、一方で、多くの要介護者の方は、自分の心の問題を解決してくれる人との出会いが健常者と比べ、圧倒的に少ないです。
そのため、心に病を抱えたまま、その苦しみを正直に口に出すことなく、ストレスが溜まり、心のモヤモヤを解決できず、苦しんでいます。これによって、介護する方への愚痴や文句が出てしまうのですね。
特に、ご高齢者は、自分の死と向き合う必要があります。多くの高齢者が、自分の「死」と真っ正面から向き合えず怯え、そして、長く生きられないことによる未練を抱えています。この未練とは、未だに解決できていない悩みであり、やり残したことです。例を挙げれば、未だに息子さんとケンカしたままであるとか、ご家族が見舞いに来ないなどです。
そんな死に向き合えず、未練を抱えた方に対し、心のケアを行う介護者もいます。そういう方は、スピリチュアル的に見て、介護が天職かも知れません。
介護者が、相手の心のケアまで念頭に入れてサポートすることで、自然と介護の質も向上します。このような介護者、介護士が増えてくると、日本の未来は明るいなぁと、私は思います。そして、多くの方が介護者の苦労、大変さを理解し、讃えることで、もっとこのような方が増えるように思います。
尊厳死・安楽死について(延命治療について)
さて、以下では、みーさん(50代・女性)からのご質問にお答えします。
数年前から人間は生き過ぎなのではないか?との思いが強くなっています。尊厳死や安楽死が広まればいいのに、と。
介護の資格も取りましたが、ますますただ生かされている高齢者と介護する家族や施設の方両方の大変さ。お互いに辛い気持ちになるのなら寿命がくるまで生きるのではなく自己判断で死んでもいいのでは、と。
このどんどん強くなる思いはなんなのでしょうか?
みーさん、ありがとうございます。みーさんは、介護される方の「死生観」まで想いが及び、素晴らしい介護者さまですね。
現状、多くの方がご存じのように、日本では尊厳死や安楽死は、合法ではありません。そのために、これらを行った医師は、自殺関与・同意殺人罪に該当してしまいます。
本人の同意があってもNGですから、医者および介護者は、患者が苦しもうと治療を続ける他ないのです。
このような延命治療における問題に対し、天界は、下記のように話しています。
この世に延命治療が本当に必要なら、神はわざわざ人間に死など与えないだろう。死とは終わりである。終わりのない人生など、誰が歩みたいのか。生きる者の傲慢と強欲が延命治療を生み出すのです。延命治療とは、病院側のビジネスツールの一つに過ぎないのです。
つまり、天界は、現状、行われている延命治療に対し、反対の意見を述べています。
延命治療の中で、論争の的となるのは、尊厳死や安楽死が合法化されることで、「本当は生きていたいけど…死を選ばざるを得ない」という高齢者が現れてしまうのです。「本人の同意」を得た上であっても、それらは、強迫や同意書の偽造などにより、本人の想いを正確に伝える手段とならないのです。
この問題は、スピリチュアルにおける問題というよりは、どちらかというと以下の3つの問題に分かれるように思います。
- 仕組み(技術的な)の問題
- 利権の問題
- 死における決断基準の問題
①システム的な問題
同意書が本当に本人によって作成されたかどうかを確認する手段が現状、仕組みとして確立できていません。今の時代は、何でも精巧に偽造ができます。
そのため、他人が作った偽の尊厳死、安楽死の同意書が通ってしまうこともかるのです。これは、合法的な殺人を可能としてしまう大きな問題です。また、痴呆症などにより、判断能力がないケースにどう対応すべきか等の線引きも、倫理的に仕組みを決める上で容易ではありません。
②利権の問題
延命治療は、他の治療と比べ、医師や看護士の労力が少なくて済むために、利益が上げやすいようです。このため、尊厳死や安楽死が合法化されると病院における大きな収益元が1つ無くなることになります。
③死における決断基準の問題
多くの方が、未練を抱えて生きている中で、「自分が安らかに死ぬこと」に対し、本人がどこまで正しい判断ができるか疑問です。「元気になったら、○○したい」という気持ちは、誰にでも、自然と湧き起こるものです。生きる確率が1%でもあれば、多くの人が死に対し、前向き手続きを進めるのは難しいでしょう。
最後に
上記のように、尊厳死や安楽死が正しいとスピリチュアル的に判断できても、実際には、人間が未だ解決できない問題が多く横たわります。これは、人間の英智の未熟さの問題であり、人間の心が穢れているからではないと思います。
みーさんが、この問題に立ち向かうことは素晴らしいことだと思います。人々が様々な考えを持つ中で、一番ベターな道を模索することは、人類を一歩前進させることに繋がります。ですから、ぜひ、ご自身の意見を公にして、いち早い問題解決を促してほしいです。
ミエナさま、いつも有難うございます。
病気ながらもしっかり自分があり、意思の疎通が出来る人の尊厳死、安楽死は
認められるべきだと思います。
でも、確かに問題も多く、この次元において実行される事は
難しい点が多いと思われます。
認知症など会話も意思の疎通もままならない人の介護はとても大変ですが
魂を磨くべき者にとっては、大事な経験の場となることと思います。
いつ終わるか分からない介護の真っ只中で、愛に目覚める事は難しい。
もしそれが自覚出来たらランナーズハイに近い状態かもしれない。
今、大きな社会問題のひとつでもある介護問題ですが
誰もが辛い介護に直面するわけでは無い。
それは、チャンスを与えられた選ばれしチャレンジャーと言えるのかも。
20年続いた認知症だった舅の介護を終えた今、ミエナさんの言う
「愛を持って介護しなくとも、介護という行動を起こすことで、愛はあなたの心に生まれる。」
という言葉が理解出来る自分である事に気づく。
異常食欲、不潔行為、破壊行為、暴力、徘徊…
心病む程の体当たり介護の中にも愛は息づく。
向き合う事で、屈辱や憎悪ばかりではない事に気づく。
上級クラスのチャレンジャーには、宝探しの様に愛は仕込まれている。
ひとつの使命が終わる頃には、大事な経験と引き換えに心や身体の痛みは忘れる。
生きていれば、介護だけでなく、あらゆる試練に直面するのは当たり前。
魂磨きを意識出来ていれば、辛い中にも経験は宝である事に気づけるでしょう。
キツければキツい程、選ばれしチャレンジャーである事を忘れないで欲しい。