こんにちは、ミエナです。
今回は、「なぜ、どん底のときにこそ、誰も助けてくれないのか」について書いていきます。
「助けてほしい…けれど、誰も助けてくれない」ときに考えること
自分が、大して苦しんでないときは、とても人から優しくしてもらえたりするのに、なぜか、本当のどん底のときは見放される…こんなとき、ありますよね。
ちょっと、わがままな話ですが、「 助けてくれなくていい…」と思うときに助けてくれて、本当に困ったときは、煙たがれる…不思議…
こんなとき、どう考えて、どのように立ち向かえば良いのでしょうか?この記事にて、詳しく書いていきます。
この世は、戦場。
Q.みなさんは、「この世は戦場だ」と思ったことはありませんか?
受験のときだったり、就活のときは、思ったりしますよね。生き残るために、相手を蹴落として、数少ないパイを奪い合う過酷な世界…
私は、高校生のとき、KEMURI(ケムリ)という音楽バンドが好きだったのですが、そのKEMURIの曲「prayer」の歌詞の中にこんな一説があります。
No time to cry, why don’t we try? Prayer in the battle field named peace!
Prayerの歌詞 | KEMURI
▼直訳
泣いているときではない。なぜ、挑戦しないの?平和という名の戦場での祈り
「平和という名の戦場」という歌詞に、当時の自分は、とても重い説得力を感じてしまいました。考えようによっては、この平和な日常は「戦場」なのかも知れません。
この世が戦場だったら、他の人をかまってられない…
鉄砲玉が飛び交う戦場の中で、一人の人間が苦しんでいても、誰も助けてくれません。それは、「人間が、冷たい存在である」からではなく、ただ、助ける余裕がないのです。
あなたが、まだ歩ける状態なら、助けようとする人が現れ、その人の脳裏にも、きっと一緒に生き延びる方法が思い浮かぶでしょう。しかしながら、戦場の中で、立つことさえできないならば…見捨てられるかも知れません。
戦場では、弱い人を助ければ、助けた人にも死のリスクがあり、また、助けた人の死のリスクは、他の隊員全体のさらなる危険に繋がることも考えられます。
この世が「平和という名の戦場」であれば、どんなに苦しかろうと、自分だ頼り、自分を信じて、前に進むしかない…
では、本当に、この世は戦場?
この世を「戦場」と捉えると、如何に、どん底に落ちたときほど、助けてもらえないかが、分かりますよね!?
さて、この世が戦場であるならば、この世は「奪い合いの世界」であり、「比較優劣の世界」と言えます。
「奪い合いの世界」とは、資源は限界が決まっており、限られた資源をかけて、命がけになる世界です。そして、「比較優劣の世界」というのは、常に他人と比較する世界を指します。戦場では、相手に勝たないといけませんから、他者と自分の比較は避けられないのです。
ここまで読むと、スピリチュアルが好きな方は、お気付きになるでしょう。「本当に、この世は戦場なのか?」ということに…
スピリチュアルな考えでは、この世には無限の愛があり、人と人とがお互いを尊重する世界が存在します。そう考えると、「この世は戦場である」という考えも疑いたくなります。
「答えがない」のが答え
「この世は戦場である」と断言することはできません。反対に、私が、「この世は戦場ではない」とも促すこともできません。
この問いに、答えなどないですし、人それぞれが、自分でどう思うのかを考える権利(義務とも言えます)があります。
「答えがない」のが答えなんです。
この世を「戦場」と捉えるデメリット
さて、ここで「この世は戦場である」と、仮にご自身が思った場合、どういうことが起こるかをスピリチュアル的に書いていきますね。
この世を「戦場」だと思えば、そのように考えて生きていくこともできます。しかしながら、「戦場である」と考えると、スピリチュアル的に1つ困ったことが起こります。
それは…
この世を「戦場」と捉えると、自分の潜在的な才能が開花しないのです。
潜在的な才能とは、誰しもが1つ以上を持つ、その人だけの特殊な才能のことです。この才能により、人は誰しも、豊かに生きる能力を備えます。
潜在的な才能が開花すると起こることを下記に書いておきます。
▼潜在的な才能が開花すると起こること
- 他者を愛することができる
- 他者をサポートし、勇気付けられる
- 自分の使命を全うできる
- 自然と暮らしが豊かになる
- 心が芯から満たされる
以上です。
参考記事:読むだけで才能が開花するブログ
この世を「戦場」と捉えれば、これらのスピリチュアル的な恩恵は受けることができません。
ここで、繰り返しとなりますが、この世を「戦場」と捉えるか、「助け合いの世界」と捉えるかは、ご自身次第です。決定権は、ご自分の中だけにあります。
【タイプ別】苦しいときの立ち上がり方
Q.「助けてほしい…けれど、誰も助けてくれない」とき、あなたは、この世を「戦場」と捉えますか?それとも、「助け合いの世界」と捉えますか?
この問いに正解はありません。
しかしながら、この問いの答え方によって、「苦しいときの立ち上がり方」が異なります。
【乗り越える方法①】この世は、戦場であると思う人
あなたが、この世を「戦場」と捉えるならば、自力で立ち上がってください。あなたには、その勇気と底知れぬパワーがあります。自分の中の最後の力を振り絞り、戦場の中に希望を見つけて下さい。小さな希望から、大きな未来が開けてくるでしょう。
【乗り越える方法②】この世は、助け合いの世界と思う人
あなたが、この世を「助け合いの世界」と捉えるならば、「助けてほしい」と願う前に、人を助けてあげてください。何でも良いです。子どもに、折り鶴を折るとか、何でもないことでも良いです。
因果応報により、あなたは、あなたのように優しい人から救いの手を差し伸べられるでしょう。
最後に
この記事では、私の独自の見解で「助けてほしい…けれど、誰も助けてくれないときに考えること」について書いてきました。
「スピリチュアルの世界に、絶対の答えがある」と考えてしまいがちですが、人生には、どちらも選ぶ権利があり、正解のない分岐点があります。今回は、そんな人生を分ける考えの分岐点について、述べてみました。
この記事がお役に立てれば幸いです。
中途半端に助けの手を差し伸べることが一番いけないのではないでしょうか?
途中で放棄するなら最初から手を差し伸べなければいいのではと思います。
それは助ける側に覚悟がないからです。
自分は助けられる力があるという驕りか、救世主願望で自分に酔いたいかのどちらです。
途中で無理だったと気付いて逃げ出したら、助けられた方は差し伸べられた手を失った絶望感を味わいます。
それは余計な苦しみではないでしょうか。
またいざという時に誰にも相談できないのであれば、
その状況に陥る前に日頃から人の相談を聞いてあげるということを行えばいいのではないでしょうか。
自殺する人の状況というのは他人を助ける余裕がない状態のことです。
自分を助けることができない人が他人を助けることができるでしょうか。
魂の成長を重要視されているのでしたら、逃げ出すことは魂の成長を放棄したことになりませんか?
トミーさん
コメントありがとうございます。
> 中途半端に助けの手を差し伸べることが一番いけないのではないでしょうか?
いけなくはないです。
ただ、どこまで相手の心の回復に寄与するかが問題です。
「ガンバレ」という言葉は、かなりNGワードなので、言い方によるかも知れません。
> 自分を助けることができない人が他人を助けることができるでしょうか。
出来ると思います。助け方によります。自分の中の才能を使い、相手を助けるのなら、救えることもあるでしょう。
> 魂の成長を重要視されているのでしたら、逃げ出すことは魂の成長を放棄したことになりませんか?
魂の成長は放棄できません。亡くなった後も続きます。
奥深いご質問ありがとうございます。
ミエナ
連投すみません。
自力で立ち上がる力もなく、人を助ける余裕もない時に
「助けてほしいけど、誰も助けてくれない」状況で、
誰にも相談できないからあなたのような霊能者に助けを求める人もいるかと思いますが、その人にも見放されたり、裏切られた場合はどうすればよいでしょうか?
トミーさん
コメントありがとうございます。
> あなたのような霊能者に助けを求める人もいるかと思いますが、その人にも見放されたり、裏切られた場合はどうすればよいでしょうか?
霊能者に見放される状況が何を指すのかに寄ります。
ご本人の生きようとする意志、変わろうとする心なしには、
いかなる霊能者も救うことができないのではないでしょうか?
霊能者もビジネスで行っていることを考慮すれば、ビジネスルールに則っていれば、「裏切られる」ことはないと思います。
ミエナ
助けて欲しい時は素直に助けを求めたらいいんじゃないでしょうか?虐待などを受けて不信感に陥り、人に助けを求められなくなることもあります。人に助けを求めることも勇気がいることです。不信感を乗り越えて信頼しようとするからです。そこで助けを得られた時に感謝が生まれて、人を助けたいと思えるのかもしれません。助けて欲しいと思う時というのは自分で立ち上がることができないからそう思うわけですし、いざという時に頼れる人間関係を構築するのも時間がかかりますよね。ですので、乗り越える方法としてはあまり参考にはなりませんでした(^^;なので専門機関などのプロの手を借りるのが、現実的ではないかなと思います。ただそのプロ選びを失敗すると目もあてられないですが…私のことですが(笑)
こんにちは。
私も年齢を重ねてきて思うのは本当に必要な時は助けが来たなあという事です。これはあくまで私の場合ですが。どん底にいる時は自分がどん底にいるという自覚する余裕もないです。でも時間とともに少しずつ冷静になり全ては学びなのだと気付くでしょう。そうすると何故か思いもかけないところから救いの手が来たりします。本当に不思議ですけどね。
りかさん
コメントありがとうございます。
貴重なご意見ありがとうございます。
「救いの手」は、本当にスピリチュアル的なことですよね。
これを「運」と言ったり、「引き寄せ」と言ったり、
「行いがよいから」と言ったり、色々な表現で表せます。
今後とも、当ブログをよろしくお願いします。
ミエナ