こんにちは、ミエナです。
今回は、「依存症」について書いていきますね。
依存症とは何か?
そもそも「依存症」とは、何でしょうか?下記に厚生労働省の定義を記します。
人が「依存」する対象は様々ですが、代表的なものに、アルコール・薬物・ギャンブル等があります。 このような特定の物質や行為・過程に対して、やめたくてもやめられない、ほどほどにできない状態をいわゆる依存症といいます。
依存症についてもっと知りたい方へ |厚生労働省
上記のように、「依存症」とは、「やめたくてもやめられない、ほどほどにできない状態」を指し、継続して依存することでデメリットが発生することを指すようです。
依存症の原因について(スピリチュアル)
私は、依存症の原因は、以下の2つに分けられると思います。
▼依存症の原因(スピリチュアル)
- 現実逃避
- 自傷行為
①「現実逃避」とは、苦しい現状を忘れたい気持ちにより、アルコール・薬物・ギャンブル等に手を出すことです。「現実逃避」を繰り返す度に、状況は悪化していき、さらに依存度が増していきます。
②「自傷行為」とは、依存するリスクを承知で、アルコール・薬物・ギャンブル等に手を出し、自分の身体や経済状況を傷付けることで、心を安定させる行為です。
さらに、「現実逃避」と「自傷行為」の複合により、強い依存症が生まれることもあります。
①「現実逃避」から起こる依存症について
「現実逃避」から起こる依存症は、簡単にいいますと、「息抜きの延長」です。1つの「息抜き」を繰り返している内に、止めるのが難しくなってしまった状態です。
例えば、ギャンブル依存症なら、お金がどんどんなくなっていくわけですから、「ただの息抜き」からスタートして、徐々に、貯金が減るほどに、さらに、強い「現実逃避」を求めていくことになります…
「ただの息抜き」のはずが、状況悪化に伴い、過度な「依存症」へと変貌していくわけです。
一生懸命だからこそ、「息抜き」が必要となる
「依存症」のベースが、「息抜き」の継続であり、その継続がデメリットを生み出します。
Q.では、なぜ、人は、「息抜き」が必要なのでしょうか?
それは、「依存症」を患っている人が、常に何かと戦っているから、起こると思います。それは、「仕事」だったり、「自分の心と」だったり、「人間関係」だったり…
「一生懸命に生きよう」、「より幸せになろう」とした結果、「見えない何かと戦い」で、息抜きが必要になっているのです。
まずは、依存症の人は、自分に「お疲れ様」を言ってあげてください。あなたは、心の中で、一生懸命に戦っているから、「依存症」になるのです。戦うことが、「息抜き」を必要とさせ、そして、その戦いの中で、継続する「息抜き」が依存になっていく…
だから…
「依存症」の人は、依存症の自分を責めないでください。あなたは、「息抜き」が必要なほどに、戦っているのです。
「良い息抜き」と「悪い息抜き」
必死に幸せを求め、戦っているにも関わらず、その「息抜き」が、戦う自分を殺している状態…これが、依存症です。
つまり、「息抜き」の仕方が間違っているのです。
本来は、 幸せのために戦い、英気を養う「息抜き」が、戦う自分を苦しめ、はたまた活動停止に追い込んでしまうのですから。
では、「良い息抜き」とは何なのでしょうか?
息抜きには、「良い息抜き」と「悪い息抜き」があります。
- ○ 良い息抜き → 人生のゴールに向かうための英気を養う息抜き
- × 悪い息抜き → 一時、戦うことを忘れ、現実逃避するための息抜き
良い悪いの境目は、「何のために、息抜きするのか?」の目的意識であり、目的がちゃんとゴールに向かっていれば「良い息抜き」となります。
反対に、「息抜き」が、ゴールに向かう道筋の延長線上にない場合、苦しみから逃げる意味合いが強くなり、「悪い息抜き」となります。徐々に、過度に「逃げ」を求めることで、依存症は悪化していきます。
【治し方】人生の最終ゴールから、適切な「息抜き」を模索する
依存症を克服するには、「悪い息抜き」から「良い息抜き」へ転換が必要です。
そのためには、「人生における最終ゴール」を持つことが、まず重要となります。
この「人生における最終ゴール」とは、死ぬまでに果たしたいことです。私の場合、「多くの人に笑顔を届ける」をゴールとしています。
この「人生における最終ゴール」ゴールを果たすために、「今の自分の息抜き方法は、本当に最適なのか?」を自分に問いましょう。
そうすると、今、依存症となり、止めたい「息抜き」は、絶対にゴールへの達成と無関係なことに気付くはずです。そして、ゴールに必要な「最適な息抜き」は何か考えてみましょう。
私の場合は、音楽観賞です。学生時代からパンクロックが好きなので、この音楽鑑賞こそが、「人生における最終ゴール」に必要な息抜きです。
音楽鑑賞なら、誰にも迷惑かけないし、お金もかからないです。そして、すごく心がスッキリする。スピリチュアル・カウンセラーが、パンクロックを聞くなんて、ちょっと変かも知れませんが、「誰にも迷惑かけない」なら、自分に必要な息抜きは、肯定するようにしています。
自分に最適な息抜きを否定されたら、人は生きていけませんから。
②「自傷行為」から起こる依存症
「自傷行為」から起こる依存症とは、自分自身を自分の手で苦しめることに、快感を覚えることで、依存していく症状です。
自分は、「自分が嫌いでしょうがない…」という心が根底にある場合、リスクを理解しながらも、アルコール・薬物・ギャンブル等に依存していきます。
過度な自己嫌悪から、自分を苦しめることで喜びを得る
自分を苦しめることに、喜びを感じる人は、負債を抱えるリスクを誰よりも把握していながらも、パチンコ屋に行き、ハンドルを握ります。
また、アルコール依存症の方は、肝臓に悪影響があることを知りながら飲んでしまう…
「自傷行為」から起こる依存症の方は、自分へのリスクを把握しているからこそ、逆に依存していくのです。
どこか矛盾しているように聞こえますが、リスクがなかったら依存しないのです。
映画『トレインスポッティング』では、ヘロイン中毒の主人公が下記のように語るシーンがあります。
街には、不幸や苦痛を和らげるドラッグがあふれていた。俺たちは全部やった。ビタミンCが違法だったら、ビタミンCも注射しただろう。
映画『トレインスポッティング』
ビタミンCを摂取してもリスクはありませんが、自分を「傷付けるもの = 違法な物」ではれば、摂取したいと思ってしまうのです。
なぜ自分を傷つけ、喜びを得るのか?
「自傷行為」が目的となる依存症は、それが、アルコールであっても、薬物であっても、ギャンブルであっても、元をたどれば、スピリチュアル的に原因は1つです。
それは、「本当の愛を知らない」ことにより起こります。
つまり、本当の愛を知りさえすれば、そもそも依存する根本の動機はなくなるのです。(精神面では)
しかしながら、心は「自傷」と「リスク」を求めており、自ら依存を深める方向へと進むのです。
精神論で依存症を片付けたいのではなく、しかしながら、発端は心にあり、それは「本当の愛を知らないこと」から起こります。
依存症で病院に通っている方も多いと思いますが、再発を防ぎ完治させるには、心持ちが非常に重要なのです。
「本当の愛ではないもの」を「本当の愛」だと思い込む
人間は、無意識に「自分は愛されている」と思いたい生き物です。嘘の愛でも、「本当の愛」だと思いたいのです。本能的に。
でも、それが自分を苦しめる大きな要因となります。
この「愛の勘違い」は、両親から愛を受け取っていない場合に起こります。
「自傷行為」の原因は幼少期の記憶
「自傷行為」としての依存症の根本は、幼少期、両親から愛情を受け取っていない場合に起こります。
しかしながら、両親を責めても問題は解決しません。両親と言えども人間であり、自分と同じく魂を成長させるために生まれてきたのですから。
そもそも、基本的に、両親とは、(神様と比較して)未熟な存在です。※未熟じゃない親はいないし、そもそも未熟じゃない人間はいません。
誤った両親の「愛のようなもの」を「本物の愛」と誤解することで自傷する
誤った親であっても、幼少期は、すべて「本物で愛」であると、人間は本能的に誤解してしまいます。
親に殴られても、蹴られても、幼少時代は、それを「愛」と認識してしまうのです。
つまり、誤った親の行為を「愛」と認識し、大人になると、自分に間違った形で愛を与えてしてしまうのです。
歪んだ愛の形
- 親に殴られた子供時代を持つ人は、自分の体を傷つけることが「愛」だと認識します。
- 親に馬鹿にされて育った人は、自分で自分を馬鹿にすることが「愛」だと認識します
- 親に軽率な態度で育てられた人は、自分を軽率に見ることが「愛」だと認識します
上記のように、「愛」を誤認すると…
自分にとって、一番愛すべき人「自分」に誤った愛し方をしてしまう…
つまり、
自分を傷付けることで、「愛のようなもの」を得て、幼少期の両親の温もりを感じてしまうのです。
「本物の愛」を誤解すれば、すべての価値基準は狂う
「本物の愛」を知らないことにより、人生は思うように進みません。宇宙の構成要素の「愛」を誤解すれば、すべての価値基準はブレるのです。
つまり、宇宙の法則から外れて、自然界に溢れるエネルギーを享受できないのです。
しかしながら、依存症の方に必要なのは「本物の愛」ではありません。なぜなら、「本物の愛」は必要としても、しなくても、どこにでも溢れているからです。
道に迷ったら親切なお婆さんに出会ったり、都会に蝶々が飛んでたり、花が咲いてたり、子供がギャーギャー遊んでたり、魚屋さんが美味しいサンマ を選んでくれたり…
「本物の愛」は、感じる能力さえあれば、どこにでもあるのです。
波の音、虫の音、三日月の明るさもそうですね。
そのため、依存症のあなたが必要なのは、「本物の愛」ではなく…
「本物の愛」を”愛”だと認識できる心なのです。
最後に
多くの方が、「愛」の認識を誤っています。
こんなことを言う私も、母の「偽の愛」を「本当の愛」と勘違いし、それに苦しんできました。
「愛」の認識を誤解し、「本当の愛」に飢えると、多くの人は「本当の愛」が必要だといいます。
でも、それは、違うのです。
「自分は、本当の愛に飢えているんだ」と心の底から気づくだけでいいのです。そうすると世界は、本当の愛に溢れていることに気づきます。
本当の愛に溢れた世界で、愛を感じられない…こんな苦しいことが、多くの人の現実で起こっています…
さて、ミエナの個人セッションでは、依頼者ご自身の経験や思い出の中から、愛の波動を取り出し、「これが愛ですよ」と見えるようにすることをしています。
「本物の愛」というのが、ご自身の中にあることを認識いただき、偽の愛の認識をトラウマの切除で取ります。「本物の愛」を正常に認識できると、自分を愛し、さらに人を愛せるようになり、私はオススメしています。ぜひ、こちらからどうぞ。
ミエナさんこんにちは。
そうですね。親といえども完璧ではない。子供の頃からそれは感じていました。なので育ててくれただけでも感謝しています。それに不器用ながらにも愛はそこにあったのだと分かります。たとえ完璧でなくても愛は自分のまわりに溢れている。それを感じられる事こそが愛するということなんでしょうね。
りかさん、
コメントありがとうございます。
両親への考え方は、難しいですよね。
自分が幼少期から関わってくる人なので、客観的に見られない…
でも、自分の両親の自分への教育を改めて大人になってから考えると、
色んな感情が湧き出ますよね。
ミエナ