こんにちは、ミエナです。
今回は、「依存症」について書いていきますね。
まず、依存症を定義していきます。
人が「依存」する対象は様々ですが、代表的なものに、アルコール・薬物・ギャンブル等があります。 このような特定の物質や行為・過程に対して、やめたくてもやめられない、ほどほどにできない状態をいわゆる依存症といいます。
依存症についてもっと知りたい方へ |厚生労働省
厚生労働省では、「依存症」を上記のように定義しています。「やめたくてもやめられない、ほどほどにできない状態」とは良い定義ですね。
私も、「依存症」をそのような意味で使っていきます。
良い結果が生まれるなら依存して良い
パチンコ依存症でも、パチンコする度に勝つなら、依存しても良いのではないでしょうか?負けるから、依存されると困るのです。
ウォーキングを毎朝、欠かさずにやる方は、ウォーキング依存症でしょうか?違いますよね。ウォーキングによって健康になるからです。
つまり
「依存症」とは、依存することでデメリットが発生する
当たり前ですが…
依存するリスクを知っているが、やってしまう…
パチンコで借金を作った人は、負けるリスクを誰よりも把握していながらも、パチンコ屋に行き、ハンドルを握ります。
アルコール依存症の方も肝臓に悪影響があることを知りながら飲んでしまう…
依存症の方は、自分へのリスクを把握しているから、依存するのです。
どこか矛盾しているように聞こえますが、リスクがなかったら依存しないのです。
私の一番好きな映画『トレインスポッティング』では、ヘロイン中毒の主人公がこんなことを言ってます。
町には不幸や苦痛を和らげるドラッグがあふれていた。俺たちは全部やった。ビタミンCが違法だったら、ビタミンCも注射しただろう。
映画『トレインスポッティング』
ビタミンCを摂取してもリスクがないのです。リスクがないものには、依存しません。
つまり、
依存とは自傷と同じ。意図的に自分で自分を傷つける行為なのです。
なぜ、自分を傷つけるのか?
アルコール中毒も、薬物中毒も、リストカットも、ギャンブル依存症も、元をたどれば1つに行き着きます。
そう、すべての原因は1つ。スピリチュアル的に。
ここで「愛情不足」というキーワードを言ってしまうのは、エセ心理学者です。真実は「愛の勘違い」です。
「依存症 = 意図的に自分を傷つける行為」は、愛の勘違いから生まれます。
つまり、愛の勘違いさえ克服すれば、そもそも依存する動機はなくなるのです。(精神面では)

しかしながら、心は「自傷」と「リスク」を求めており、自ら依存を深める方向へと進むのです。
精神論で依存症を片付けたいのではなく、しかしながら、発端は心にあり、それは「愛の勘違い」から起こります。
依存症で病院に通っている方も多いと思いますが、再発を防ぎ完治させるには、心持ちが非常に重要なのです。
依存症の発端。愛の勘違いとは何か?
人間は、無意識に「自分は愛されている」と思いたい生き物なのです。嘘の愛でも、「本当の愛」だと思いたい。本能的に。
つまり、それが自分を苦しめる。
親と子の関係においては特に…
依存症の原因は親
依存症の原因は親です。きっぱり。
でも、親を責めてはいけません。親と言えども人間。自分と同じく魂を成長させるために生まれてきたのです。
未熟だから親なのです。
未熟じゃない親はいない。

そんな未熟な親が自分の子供に「本物の愛」を伝えることができるわけがありません。
「本物の愛」とは神様がお与えくださるような愛です。宇宙を構成する要素とも言えます。「愛 = 希望」とも言えます。
あなたのご両親は、あなたが子供の頃、あなたに「生きる希望」を与えてくれたでしょうか?生きる素晴らしさ、自分への愛に目覚めさせ、自然界に溢れる愛を諭してくれたでしょうか?
そうであるならば、あなたは、99%依存症にはなりません。(依存症になっても、リスクを感じればやめられる。)
90%以上の親が「本物の愛」とは別の「愛のようなもの」で、子供を育てています。(もちろん、私の両親も。普通の温かい家庭ですが…正確には「本物の愛」ではない)
親は必ず「あなたを愛しています。」と子供に言いますが、それは「愛のようなもの」であって、宇宙を構成する「本物の愛」とは別なのです。

宇宙を構成する「本当の愛」が血縁関係の有無で歪むわけはないのです。
この内容は、かなり高次元の話をしています。人間の肉体を伴い、本当に自分の子と他人の子を区別なく愛せたら、生きた神様です。「この領域に行きましょう」という話をしたいわけではなく、少なからず「親の”愛”には一点の曇りもないわけではない」と言いたいです。
「愛のようなもの」を本物の愛と誤解することで自傷する
親から”してもらった事”をすべて「愛」であると人間は本能的に誤解します。
親に殴られても、蹴られても、幼少時代は、それを「愛」と認識してしまうのです。
つまり、(魂レベルの)未熟な親の行為を「愛」と認識し、大人になると、自分を間違った形で愛してしまう。
歪んだ愛の形
- 親に殴られた子供時代を持つ人は、自分の体を傷つけることが「愛」だと認識します。
- 親に馬鹿にされて育った人は、自分で自分を馬鹿にすることが「愛」だと認識します
- 親に軽率な態度で育てられた人は、自分を軽率に見ることが「愛」だと認識します
つまり、親に”してもらった事””された事”は、「愛」と誤認するのです。
「愛」を誤認すると、どうなるかというと、
自分にとって、一番愛すべき人「自分」に誤った愛し方をしてしまう。
つまり、ちゃんと自分を愛せない。自分を「本物の愛」で愛せない。誤解した愛で、自分を満たしてしまう。
自分を愛さない人はいません。みなさん、何かしらの「愛」を自分に持ってます。でも、その自分が持ってる自分への「愛」は、本物の愛でない可能性が極めて高いのです。
なぜなら、自分を愛すときに使う「愛」は、未熟な魂の親が与えた「愛」と同じだからです。
この未熟な「愛」を本能的に「本物の愛」と勘違いしてしまうのだから、自分を正常に愛せる人が非常に少ない。
自分が自分を愛すときに、「愛」だと思っているものは、愛ではありません。
つまり、多くの方は「本物の愛」を愛だと思わず、両親から受け取った「愛のようなもの」を愛として認識し、死ぬまで信じ続けて生きていきます。
本物の愛 ≠ 愛のようなもの
上記のギャップこそが依存性の源。つまり、自分を正常に愛せないために、自分にリスクをあえて負わせようとする。
リスクを自分に負わせることで、「愛のようなもの」を得て、幼少期の両親の温もりを感じるのです。
「本物の愛」を与えてもらう必要ない
「本物の愛」を知らないことにより人生は思うように進みません。宇宙の構成要素の「愛」を誤解すれば、すべての価値基準はブレるからです。
つまり、宇宙の法則から外れて、自然界に溢れるエネルギーを享受できないのです。
しかしながら、依存症の方に必要なのは「本物の愛」ではありません。なぜなら、「本物の愛」は必要としても、しなくても、どこにでも溢れているからです。
道に迷ったら親切なお婆さんに出会ったり、都会に蝶々が飛んでたり、花が咲いてたり、子供がギャーギャー遊んでたり、魚屋さんが美味しいサンマ を選んでくれたり…
つまり、「本物の愛」は、感じる能力さえあれば、どこにでもあるのです。波の音、虫の音、三日月の明るさ…
つまり…依存症のあなたが必要なのは、「本物の愛」ではなく、
「本物の愛」を”愛”だと認識できる心なのです。
最後に
多くの方が、「愛」の認識を誤っています。
こんなことを言う私も、母の偽の愛を本当の愛と勘違いし、それに苦しめられました。
「愛」の認識を誤解し、「本当の愛」に飢えると、多くの人は「本当の愛」が必要だといいます。
でも、それは、違うのです。
「自分は、本当に愛に飢えているんだ」と心の底から気づくだけでいいのです。そうすると世界は、本当に愛に溢れていることに気づきます。
本当の愛に溢れた世界で、愛を感じられない。こんな苦しいことが、多くの人の現実で起こっているのではないでしょうか…
おまけ
さて、ここで宣伝です。ミエナの個人セッションでは、依頼者ご自身の経験や思い出の中から、愛の波動を取り出し、「これが愛ですよ」と見えるようにすることをしています。
「本物の愛」というのが、ご自身の中にあることを認識いただき、偽の愛の認識をトラウマの切除で取ります。「本物の愛」を正常に認識できると、自分を愛し、さらに人を愛せるようになり、私はオススメしています。ぜひ、こちらからどうぞ。
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