こんにちは、ミエナです。
今回は、「生まれてこないほうが良かったのか? 」をテーマに書いていきます。
ニックネーム:ゴッドさんからのご質問
みなさんは、「生まれてこないほうが良かったのか? 」と思ったことありますか?私は、昔は、すごく思いました。今はあんまり思わないです。
今回、このテーマにしたのは、ニックネーム:ゴッドさんから以下の質問を頂戴したからです。
最近注目を浴びている反出生主義をどう思いますか?一般的には(少なくとも理屈上は)論破不可能で完成された考え方だと言われています。理屈ではまったく反論できないため、感情論や根拠のない暴論で否定されている場面をよく見ます。ミエナさんはどう思われますか?
ゴッドさん、コメントありがとうございます。
反出生主義とは下記の意味です。
反出生主義(はんしゅっしょうしゅぎ)とは、生まれてきたことおよび人間を生み出すことに対して否定的な意見を持つ哲学的な立場である。
反出生主義 – Wikipedia
海外では、「自分は生まれたくなかったのに、両親は自分を産んだ」と裁判を起こす人もいるようで、コロナ禍も相まって、反出生主義の議論が活発になっています。

生まれてこないほうが良かったのか?
「生まれてこないほうが良かったのか? 」と考える人は、今、何歳なのでしょうか?この問いにおいては、非常に年齢が重要だと思います。
御年100歳のご老人の場合

御年100歳のご老人が「生まれてこないほうが良かったのか? 」と発言したならば、めちゃくちゃ深いですよね。この100年に波乱万丈の人生があり、歴史という名の運命に翻弄された人生を想像させます。
5歳児の場合
では、5歳児が「生まれてこないほうが良かったのか? 」と言ったら、どうでしょうか?

きっと、お母さんに「あんた、何バカなこと言ってんの?早くご飯食べなさい。」と言われるでしょう。反出生とは、そもそも言う人の年齢によって、恐ろしく意味合いが異なるものです。
「生まれてこないほうが良かったのか?」の言葉を他の言葉で例えてみる
「生まれてこないほうが良かったのか?」と思う人は、富士登山でいうと、九合目くらいで「登らなきゃよかった…」と思う人と同じではないでしょうか。
頂上まで登って、ご来光を見て、甘酒でも飲んで、それでも「登らなきゃ良かった…」と思うのは良いのですよ。でも、九合目で登ることを後悔するって、ちょっと、早い気がする…
そう、人生はこれからです。
人間は「完成されたパズル」ではない
人間は「完成されたパズル」ではないのです。人間は、どちらかというと「パズルのピース」です。
自分は「完成されたパズル」で、そのパズルの絵が「美しくない…」と嘆くのが、「生まれてこないほうが良かったのか? 」と考える人だと思います。(私も昔はそのように考えました。)
しかしながら、
そもそも自分という人間は「完成されたパズル」ではなく、「パズルのピース」であり、これから他のピースと組み合わせ、完成させていくものなのです。
反出生を唱え、両親を訴える方への違和感
まず、裁判の詳細については、下記に記載がありますので、ご覧ください。
参考記事:「なぜ私を産んだ!」親や医師を訴えるロングフル・ライフ訴訟とは何か
この原告は、インドのムンバイに住む27歳の男性でラファエル・サミュエル氏です。「自分を本人の同意なしに生んだ」とご両親を相手に裁判を起こしました。
この裁判をスピリチュアル的に解釈しようとすると、大きな疑問が浮かびます。
生前に「自分は生まれたくなかった」という意志があったことを、原告はどう証明するのか
上記の疑問です。
スピリチュアル的な正解は、「あなたは、生まれたくて、両親の元から生まれています」ということになるからです。
また、人生に苦痛を感じるのは、原告の「魂」が苦しんでいるのであって、肉体ではないのです。となると、両親が産んだのは肉体ですから、「精神的苦痛 ≠ 両親が産んだから」の理由は成り立ちません。
反出生主義は、答えなき論争
反出生主義は、答えなき論争に発展するでしょう。それは、そもそもスピリチュアル的な真実の前提条件を加味していないからです。
「魂と肉体を両方とも両親が産みだした」という誤った前提が、議論をややこしくしています。
両親は、子供を産みましたが、その子供の肉体に宿った魂は、「あなた自身」なのです。このことが、裁判で正式に認められない限り、行く当てのない論争は、終わりを迎えないでしょう。
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